ベルギー留学 言葉と文化の壁を越えた瞬間

山口県の田舎町から有名私立大へ現役合格したものの、見事に遊び惚けて留年が決定。将来やりたいこともなく、自由な時間が当時の自分を悩ませていました。

そんなある日、キャンパスをぶらぶらしているときにインターンシップの広告を見つけました。「IAESTE」?どうやら理系学生の為の交換留学制度のようです。調べてみると結構有名で、大企業からの寄付で成り立っている為、留学費用はタダ!生活費まで支給されます。

当時はバイトで何とか生活していて旅行に行くお金など到底ありませんでした。お金と時間の心配をしなくていいならやるしかないという感じでした。

一年近く準備をして、リスニングや面接試験をやって何とか合格することができました。ベルギーのGhent大学・応用化学科でプラズマの研究をするらしいです。

技術大国であるドイツが人気らしいのですが、合格できただけラッキーだと思いました。日本の卒論はそっちのけで教授には苦い顔されたのですが、思い切って初めてのヨーロッパに行ってみることにしました。

 

この一年前、アメリカ・ロサンゼルスの短期留学へ行った以外海外経験はなく、初めての欧州にわくわくが止まリませんでした。イタリア・ローマからバックパックで半月かけてベルギーへたどり着きます。留学中は周辺国へ旅行三昧、ベルギーでは毎日ビール・フリッツ・ワッフルを楽しむ毎日で最高の夏休みでした。

その反面、苦労と感動は表裏一体なんだと実感しました。この時期では、特に思入れ深いエピソードを時系列に3つ紹介します。

 

アジア人ゼロの多様性

ブリュッセルでIAESTEのウェルカムパーティに行ったときに気がつきました。アジア人がいないと、、

寧ろ10カ国以上の欧州人に加え、ヒスパニックやアフリカ人もいます。島国日本で育った私には想像を超える環境すぎて訳が分かりませんでした。兎に角、共通語は英語のみネイティブではないにせよ皆やたら流暢です。

なぜ20歳そこそこの学生が怖気づかず喋りまくっているのか、グローバルの欠片もなかった当時の正直な感想です。こんなに気持ちの沈むパーティは初めてでした。

更に追い打ちをかけるように一緒の研究室に通う同僚はスコットランドの女の子。興味があればスコットランド英語を聞いてもらいたいのですが、発音が全くわかりません。アメリカ英語とイギリス英語の違いもわからない、TOEIC500点台の当時の私にはハードルが高すぎました。

大学の研究室の英語すら理解できない自分は絶望的な気持ちになり、毎日眠くなるまで「FRIENDS」というシチュエーションコメディーを見て勉強する生活が始まります。因みに、ベルギーの大学生は英語・オランダ語・ドイツ語・フランス語がネイティブレベルで話せるらしいです。

当時はLINEのようにに気軽に日本と会話できるツールもなく孤独でした。

 

辛いパーティ

2週間程経って、大学の近くに住んでいる留学生の家に招かれました。

毎日10人~20人が広い部屋に集まってビールと音楽でパーティをしているらしいです。勿論、やはり皆国籍は違いアジア人はいませんでした。皆がぺらぺら会話をしたあとにお前はどう思う?と聞かれても何の話をしているのかさえ分からず、本当に辛かったのを思い出します

暫くして1人のスペイン人が声をかけてきました。簡単な英語ですが訛りもありやはり聞き取れません、気持ちが沈みます。然し彼は諦めず、理解できるまで話してくれました。彼以外、そんな根気はありませんでした。

面白くなかったら次から呼ばれないやつだっています。ここで逃げたら終わりだ、何も得られず帰国してしまう、といくら辛くてもパーティには顔を出し続けました。

言葉がわからなくても酒を飲み続け、踊り続け、身振り手振りで面白いことをし続けました。

暫くして変化が訪れ始めます。パーティ仲間が色々と興味を持ってくれるようになりました。昼間はチャットをし、夜は日本について色々聞かれました。忍者とか侍はいるのかとか、中国人や韓国人の見分けはつくかとか、たわいもない話です。

分からなくてもみんないくらでも繰り返してくれ、お陰で言っていることもだんだんわかるようになりました。

 

当時の写真 ベルギー・ゲントでの集合写真
当時の写真 ベルギー・ゲントでの集合写真

ハッピーエンド

仲間ができてから周辺国に色々と遊びに行き、平日は明け方まで体力が続く限り遊び続けました。たわいもないことがかけがえのない思い出になりました。

然し、別れは訪れます。

私は皆より少し早く、アムステルダム国際空港から帰国することにしていました。最終週いつものように仲間と飲んでいるとき、みんなでアムステルダムに行こう、と仲間が口を開きました。

私は遠慮しました。

みんな連日遊び続けてお金もなくなっているし、ベルギーからアムステルダムは見送りには遠すぎる。然し、誰一人受け入れませんでした。10人程の仲間が皆笑顔で当たり前だ、と言わんばかりの表情でした。

平日の夜からとことこ電車に揺られ、いつものたわいもない話や仲間のものまねで笑いが絶えません。結局、誰も朝まで一睡もせず、クラブで踊り街を徘徊しました。

 

当時の写真 アムステルダムのエレベータにて
当時の写真 アムステルダムのエレベータにて

 

流石に明け方は体力の限界だったのですが、そのまま空港まで見送りに来てくれました。

最後の別れの時、初めのパーティで話かけてくれたスペイン人が言いました

お前はここに来たときは1人だった。でも今はこんなに仲間がいる。日本に帰ったらお前はチャンピオンだ!

抑えていた感情が抑えきれなくなりました。

逆境で逃げずに何とか自分を認めてもらいたいと食いついてきたこと、そして最後は言葉や文化の壁を越えて心が通じ合えたことが何事にも換えがたい感情を引き起こしました。

 

さいごに

約1か月半の思い出でしたが、精神と時の部屋に入りTOEICは800点台になりました。然し、英語の点数より研究より何より大切なことを学びました。

人生、一期一会の繰り返しであること、その時のその環境を精いっぱい生きないと二度と戻れない時間があること。後悔している暇はない、気持ちの赴くまま動けば決して後悔はないと。

自分が死ぬ直前に、いい人生だったと言えるような思い出をこれからもつくっていきたいと思いました。

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